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レポート

【アスリートレポート】松本大選手
第66回富士登山競走

 7月26日(金)に、第66回富士登山競走に出場してきました。標高約700mの富士吉田市役所から約3700mの富士山頂(吉田口ルートの山頂)まで、標高差3000mを一気に登る、世界屈指の山岳レースです。結果ですが、念願の初優勝を果たすことができました!!

 今思えば、富士登山競走との出会いは、私が2〜3歳ごろ(?)物心つかない頃に遡ります。30年ほど前、私の親父が出場しており、私もヨチヨチ歩いて7合目辺りまで応援に行っていたそうです。富士登山競走の永久欠番ともいえる、芹沢雄二さんが連覇を始める前の時代になります。今でもその時の光景を覚えております。青空を背景にしながら、屈強な脚のランナーが急な坂道を駆け登っていました。憧れというか、畏敬の念というか。それまでの短い人生で世界最強の人間は親父だったので、親父よりも凄い人がこの世の中にはいるんだな、ということを知った機会でした。そんな光景を目の当たりにしたこともあって、山は走って登るものだということが当たり前でした。そうして、山を駆け回る少年時代を迎え、スカイランナーとしての土台を築いていくことができたのです。今思えばですが、富士登山競走がスカイランナーとしての私の原点であったともいえます。

 富士登山競走と再び出会ったのは、私が大学生の頃です。山岳ランナーの師匠である鏑木毅さんのサポート隊として2004年・2005年の2回、応援に行きました。当時、2連覇中で優勝候補の筆頭であった鏑木さんと一緒に富士山で練習をしたりしていく中で、鏑木さんは、将来の私のために富士登山競走の勝ち方についてもレクチャーしてくれました。後半勝負。これが鏑木さんの口癖でした。サポート隊で応援した2回のうち、鏑木さんは2004年で3位になり、翌年2005年レースで再び優勝をしました。2004年に負けたときの鏑木さんの一言を今でも覚えています。「これで来年また勝ったらかっこいいよな〜」。2005年のレースでは8合目から鏑木さんのペースメーカーとして先導し、鏑木さんが優勝する場面を目の当たりにすることができました。「勝ち方を目にすることは今後絶対に生きてくるよ」と鏑木さんは私に教えてくれました。そのように、鏑木さんの富士登山競走に対する特別な思いを感じて、青春時代を過ごすことができました。

 その翌年の2006年。私は選手として初めて富士登山競走に出場しました。メジャーデビュー1年目です。その時、私は5位でしたが、4位の鏑木さんに一旦追いつき、最後まで競ったレースでした。また、その年は、宮原徹さんがデビューして2時間32分の驚異的な新記録を打ち立てたレースでもありました。鏑木さんは、翌年からウルトラトレイルへの道を歩むことになります。今思えばという話になりますが、2006年という年は、日本の山岳レース界の世代交代が起こった年だったと思います。

 その後も富士登山競走は私にとって勝つことの難しいレースであり続けました。2007年はエントリーをしたものの、怪我で不出場。2008年は4位入賞。2010年はスイスのレースに出場したため不参加。2010年は惜しくも優勝を逃して3位。2011年は仕事疲れのボロボロで10位。2012年は海外遠征中で不出場・・・。国内の他のレースでは簡単に勝ててしまうのに、なぜか富士登山競走だけは微笑んでくれませんでした。ロードが長く、下りが無く、走力のあるランナーが有利というコース設定。陸上経験の無い私なので、苦手意識ばかりが大きくなっていきました。どうしても勝ちたい。でも、勝つことができない。出場したら、いつも悔しい思いをしてばかりいる・・・。富士登山競走に出場することへの怖さが大きくなっていきました。

 2013年。プロとして迎えた2年目のシーズン。私の目標は海外のレースで上位に入ることでした。5月・8月・10月。その3回のレースをまずは優先してカレンダーに書き込みました。そしたら、7月が丸々空いていました。“今後、海外で戦うからには、富士山である程度の結果を残しておかないと誰にも認めてもらうことはできない”という思いでエントリーしました。つまり、今回の富士登山競走参戦は、富士山で勝つこと自体が目標なのではなかったのです。あくまで、海外で胸を張って戦うための試金石という位置づけでした。

 富士登山競走への出場が決まったことで、改めて富士山でよい結果を残すためのポイントを確認したいという気持ちになりました。そこで、ポイントを教えてくれたのが、記録保持者の宮原徹さんでした。7合目までは走り続けるけれど、7合目から上は歩いたほうが早い。宮原さんが教えてくれたレースの攻略法です。練習方法についても、ジョギング中心ということを教えてもらいました。スポ根的な鏑木さんとは全く違い、力が入っていない宮原さんの戦い方。最初は本当なのか?と疑問に思いました。しかし、宮原さんの結果が全てを物語っていると思い、鏑木さんの練習方法から抜け出して、宮原さんの戦い方を一番の参考書として自分自身に吸収させていく日々を過ごしました。
 宮原さん流の練習方法がよかったのか、富士登山競走は海外で戦うための通過点に過ぎないという考え方がよかったのか、レースまでの日々はとてもリラックスした状態で過ごすことができました。昨年から海外の激しいレースを経験していることもあり、社会人ランナーとして通信簿付け直後に戦った2008年、2010年、2011年の3レースとは比べ物にならないほど、心身共に余裕を持って臨むことができました。

 レースの直前。実は、寝すぎで、軽いぎっくり腰になっていました。レースの前の晩は、同じ姿勢をしていることが辛く、腰の痛みでよく眠れませんでした。調子が悪くなかっただけに、焦りが募ってきました。富士山の神様はなんて意地悪なのだろう・・・。スタートラインに立ちたくないという気持ちが出てきてしまいました。レース当日、夜の2時には痛みで目覚め、風呂場で水風呂に浸かってアイシングをしましたが、全く楽にはなりませんでした。“きっと走り始めれば痛みがなくなるはず”と、己に言い聞かせながら、レースの朝を迎えました。スタート前。腰は痛かったですが、走りに問題はありませんでした。また、薄曇であったために、さほど暑さを感じなくてすみました。暑さに弱い私にとって、富士山の神様が微笑み始めてくれたのでしょう。腰以外は、なかな良いコンディションでした。

 7:00にスタート。今年はロードがダントツに強かったり、無茶して最初からとばしたりする選手がいなかったこともあり、常に7〜8人の先頭集団を確認しながら苦手な10kmのロードを走ることができました。おそらく、先頭集団はお互いに牽制し合っていたと思われます。今思えば、今年の上位陣のメンバーは私にとって運がよかったです。タイム差がそれほど無い状態で山に入れたということは、私に勝機をもたらしました。馬返しでのタイムは50分ちょうど。予定通りです。馬返しから山に入ると、いつものパターンで次々と脱落してくる選手を吸収していきました。5合目では4位に順位を上げ、6合目では3位になり、1分先に通過した先頭の2人の姿を確認することができました。6合目で先頭の姿を捉えることができるか否か。これが勝敗を決するポイントだと思っていました。なので、勝機有り!!と一気にテンションが上がりました。

 しかし、それなりのペースで登ってきたので、私の足もダメージを受けていました。攣りそうになる脚に負担を掛けないように、ソフトランディング、ソフトタッチを意識して、一歩一歩刻んで登り続けました。7合目までで走り続ける“走力”は90%ほど使い果たしました。これは宮原さんの戦い方の通りです。7合目からの岩場は歩きに徹することにしました。7合目で先頭の2人に追いつき、そのまま抜き去りました。生まれて初めて、富士登山競走の先頭に立った瞬間でした。「1位だよ!すごい!」「先頭が通過します!」という声が周りから聞こえてきました。“自分は数千人のランナーの先頭を走っている”という喜びが大きくなる一方で、“絶対に勝ちたい!”という強い意志が湧き出してきました。

 先頭に立っても、私の後ろを実力のある加藤聡さんがピッタリと追尾していました。加藤さんは過去に2時間40分台という記録を出した実力のあるランナーです。私よりも走力はあるということは知っていましたので、“最後のスパートに向けて力をためているのでは?”という不安をもって登り続けました。私の脚は何度も攣っていました。小規模な群発地震が起こっているようなものです。苦しさはありませんでしたが、足の痙攣に襲われ続け、いつ動けなくなるか分からないという不安も抱えていました。そのまま、8合目まで2人で登り続けました。
 
 8合目で、私の脚が暴れ始めました。そんなこともあり、ストレッチのため、少し立ち止まって、加藤さんを泳がせてみることにしました。そのまま加藤さんがスパートをかけてしまえば、私は勝つことは難しくなると思っていました。しかし、運がよいことに加藤さんは苦しそうに歩き続けるだけで、一度立ち止まった私が簡単に追いつくことができたのです。ここで初めて、自分にも勝機有り!という確信をもつことができました。既に標高差2500mを登ってきた二人なので、共に脚を使ってボロボロの状態です。残りの30分が「男の勝負」だと思い、本八合目のあたりから歩きと走りを交互に繰り返す、私の戦い方へとギアを切り替えました。本八合目の辺りから、8合目で補給したサプリメントが効いたのか、脚の引き攣りが収まってきました。そこで、さらにギアチェンジをして、ついに加藤さんを引き離すことに成功しました。5メートル、10メートルと離れていく加藤さんの姿。20メートル離れた時点で、勝利を確信することができました。9合目からはウィニングランのような感覚でした。私の知り合いも多く、山頂からは「松本さ〜ん!」という歓声が聞こえてきました。最高の気分。標高3000m以上の爽快な風を感じながら、笑顔で山頂を目指すことができました。

 大歓声に包まれながらのゴールの瞬間、“芹沢雄二さん(優勝10回の偉大なランナー)、鏑木毅さん、横山忠男さん(富士登山駅伝のチームメイト)、宮原徹さん・・・偉大な先輩たちは、こういう喜びを感じたんだな”ということを思っていました。富士登山競走と出会ってから、30年近く。ついに自分自身が、幼い時に憧れた存在へとなることができた瞬間でした。

 まずは、2008年以降、何回も現地で応援し続け、何回も同じ悔しさを共有してくれたサポート隊(家族、須藤さん、きたむうさん、かなちゃん)のみんなに感謝。みんなは山の家族です!! そして、現地やネットで応援してくださったみなさん、スポンサーとして支えてくださっているみなさん、素晴らしいレースを運営してくださったスタッフのみなさん、一緒に山頂を目指したランナーのみなさん、有難うございました!!こんな幸せな思いをすることができたのは、みなさんの支えがあるからです!!

 しかし、これで満足しているわけでもありませんし、夢が達成できたという気持ちでもありません。最初に述べたとおり、私にとって富士登山競走は世界と戦うための通過点です。私が戦っている世界は、富士山よりも高いところに聳えているのです。もし、世界の強豪選手たちが富士登山競走に参戦していたら、おそらく私の順位は30〜50位くらいだったでしょう。世界のトップレベルに食い込んでいくためには、まだまだ経験も努力も実力も全然足りていないのです。勝って兜の緒を締めよ。これからが本当の戦いです。

 しかし、通過すべきポイントをちゃんと通過することができたのは価値があることだとも思います。高校の頃の国体での優勝がアスリート人生の第一関門だとしたら、人生の第二関門をクリアすることができたように思えます。第二関門の先に待っているのは、果てしなく分厚く高い、世界の壁です。第三関門を突破することができるのかは分かりませんが、胸を張って世界の壁にぶつかって、思いっきり戦ってみたいと思います。

 次は、8月24日、スイスのマッターホルンで世界の強豪と戦ってきます!!

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